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空手道とは
About KARATE-DO

このページでは「空手道」そのものについてお伝えしていきます

当ホームページをご覧の方が

より空手道のことを知り

興味をもっていただければ幸いです

格闘家と夕日

空手の原型の発祥は、14世紀の琉球にまでさかのぼります。

日本古来の武道の精神を継承しながら、「術」から「道」に発展した、実に600余年の歴史をもつ、日本固有の武道​です。

戦後の「武道禁止」策もかいくぐり、日本国内で普及・発展するなかで競技化にも成功し、世界中に普及しています。

Image by Lewis Yin

空手道の歴史

History of KARATE DO

手(ティー)発祥

14世紀−16世紀

14世紀の琉球(今の沖縄)では、三山(中山・山南・山北)という、三つの大きな勢力が競合していた。 1372 年、最大勢力の中山の王・察度が、中国の明国の求めに応じて交易を開始し、中国武術が入り込む。 ​ 中国拳法などの武術は、やがて沖縄風土に合うように形成されて発展し、固有の徒手空拳の武術「手(ティー)」となった。 ​ 1429年、琉球王朝(-1879年)が誕生。尚真王(1465-1526年)の時代に行われた「禁武政策」により、​武士階級であっても武器の所持が禁じられるようになったこともあり、王国の士族は、教養として「手(ティー)」を学んだ。

沖縄唐手の始祖

佐久川寛賀(さくがわ かんが)

琉球古武道中興の祖(1786-1867年81歳没)。 首里の士族の照屋家に生まれ、頭脳明晰で武術にも秀でていたことから、20代(30代説あり)で琉球王府の推薦を受け、中国北京へ留学。 北京から戻り、琉球王府の国学(行政官の養成所。当時の琉球王府の最高学府。)の教師に。 業務の傍ら、幼少の頃より学んだ沖縄固有の武術「手(ティー)」に、北京で学んだ中国武術を融合させ、独自の武術を創造した。 1835年(49歳)に八重山の最高行政官に就いた際に佐久川姓に改名。その後も、北京進貢使として北京へ5回派遣。

手の発展と「唐手」

17-19世紀

1609年の薩摩による琉球侵攻で、争乱時に素手で身を守る武術として、「手(ティー)」は、より発展することになった。 また、薩摩に上納するための泡盛が高値で売れたことから、泡盛工場の用心棒として、沖縄全土から腕自慢の武人たちが、腕を競って集い、実践武術の向上がはかられ、柔軟性を重視した首里手、筋骨重視の那覇手、その中間の泊手が発達し、それぞれの地域で優秀な武人があらわれる時代となった。 こうして発展した「手(ティー)」に、佐久川寛賀(さくがわ かんが)が中国から持ち帰った中国武術を融合してできたものが、今日の「空手」の源流「唐手(トゥーディー)」であるとされている。

唐手から空手へ

20世紀から第二次世界大戦前

1908年、首里手の大家・糸洲安恒によって「唐手十ヶ条」がまとめられ、学校教育の場で取り入れられるようになり、名称も「唐手」から「空手」となった。 1920年代には、今の流派の形に体系化され(伝統空手流派:剛柔会、糸東会、松濤会、和道会)、 東京で開催された第1回体育博覧会(1922年)において「形(かた)」の演武が公開されたことを契機に、大学を中心として日本各地に空手が普及することになる。

空手の普及と発展

第二次世界大戦後

1945年終戦の年に、連合国軍総司令部(GHQ)の教育政策により、軍国主義に加担した武道は禁止となった。柔道・剣道と同じく、空手も禁止される恐れがあったが、廣西元信(松濤会)が文部省と交渉し、空手を大学体育として存続できることになった(「空手はジャパニーズ・ボクシングでありスポーツだ」と直訴し、許可。) ​ 1950年に学校で武道教育が再認可され(同年 全日本学生空手道連盟結成)、以後、多くの日本人指導者が海を渡り、空手を全世界に広めた。 2020年東京オリンピック(2021年開催)では、初めて正式種目として採用され、日本選手が目覚ましい活躍を見せたことは記憶に新しい。いまでは、全世界で推定1億3000万人が空手道を学ぶとされる。 ​ 空手道は、心身を鍛え、人格を高め、豊かな人間性を育むことを主眼とし、その普及は世界中の子供たちに数多くの恩恵をもたらすとして、国内はもとより、世界中で嗜まれている武道である。

出典:日本の空手略史、内閣府、全日本空手道連盟、

和道会本部、NPO法人首里まちづくり研究会の各ホームページ

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